芸術監督

劇場の外へ、さらなる広がりを目指す。

── 3年前の芸術監督就任の際、「貸し劇場の比率が高く、大雑把な色だった東京芸術劇場に、まず、人を呼ぶ"賑わいの色"をつけたい」とおっしゃっていました。リニューアル前の時点での手応えと、そこから生まれた新たな課題があれば教えてください。

野田 池袋に劇場がある、ということは、演劇の世界では以前より知られてきたのではないでしょうか。これまで芸劇に来たことのない人が「何度も足を運ぶようになった」という話も聞きます。これからは、現象としてそれをもっと外に広げたいですね。

── 現象というのは?

野田 かなり以前から、芝居が劇場という壁の中で終わっている。あるいは、そう感じさせる芝居が非常に多くなりました。客席に座っているお客さんが劇場の外を意識している、意識せざるを得ない時にこそ、演劇はもっと面白くなるんです。観客が作品を通して自分の内側だけ見ている時代は、演劇にとっても不幸な気がします。これは積極的に肯定できる状況ではありませんが、震災後しばらく、みんなが劇場の外を強く意識するようになりましたよね、物理的には劇場は何ひとつ壊れていないのに。人間の意識のあり方の問題なんですが、それを外に向けることは非常に大切ですね。

── 具体的に劇場としてはどんなことをしたいとお考えですか?

野田 僕が芝居を始めた1970年代は、表現をすることが社会の現象になりましたが、今は演劇に限らず文化全般が現象になりにくい。でも、派手な話題を呼ぶということではないんです。最近、長野のまつもと市民芸術館に行ったんですが、地域の方が文化をリスペクトしているのが伝わってきて感動しました。演劇も非常に観慣れているし、劇場に愛着を持っている。静岡芸術劇場もそうでした。そういった着実な広がりとしての現象ですね。前者には串田和美さん、後者には宮城聰さんという芸術監督がいて、粘り強くさまざまな取り組みをしていらっしゃる。そうした劇場と芸劇がつながりを持っていくことが、まず大事だろうと考えています。

── 劇場という点をつなげて線に、面にしていく。

野田 たとえば海外の作品も、日本各地をツアーする形で招聘して費用を分担すれば、経済効率も上がります。将来的には、それをさらにアジアに広げていくことも考えるべきでしょう。ただ東京の場合、「劇場の地元」がどこを指すのかが非常に難しい。「地域の皆さん」と言った時に「都の劇場だから東京都民」と想定するのは、あまりにも漠然としています。「東京」と付いたら、時には日本を代表してしまうこともあるわけで、そこが地方の劇場とは異なる難しさではありますね。

── 劇場の外にいる人、劇場文化に関心のなかった人が劇場に注目するチャンスとしても、リニューアルオープンはとても大きいと思いますが。

野田 そうですね。祭り性、祝祭性は演劇の大きな仕事ですから。その意味では、とても賑やかなプログラムが組めたと思います。でもリニューアルのタイミングだけでなく次の企画、今後ももちろん大事だと思います。

── では、今後のビジョンを教えてください。

野田 リニューアルの前と後で目指す形が変わったわけではないので、結局、就任の時と同じ目標になりますが。これから演劇をおもしろくしていくであろう若い劇団の育成、子供向けの演劇教育事業、優れた海外作品の招聘、そして優れた自主制作作品の発信ですね。さらに細かく言えば、時間はかかるでしょうけれど、劇場がワークショップを主催してそれを積み重ね、ひとつの作品をつくりたい。さらに時間はかかるでしょうが、劇場が劇団を持つというか、役者を抱えてレパートリー制で公演を打つというのが最終的な理想です。芸劇だけでなく、公共施設はどこもそういうシステムになればいいと思います。

プロフィール

東京芸術劇場芸術監督
東京芸術劇場 芸術監督 野田秀樹

1955年長崎県生まれ。劇作家・演出家・役者。
2009年7月、東京芸術劇場芸術監督就任。
多摩美術大学教授。
東京大学在学中に劇団「夢の遊眠社」を結成。
1992年、劇団解散後、ロンドンへ留学。帰国後の1993年に企画製作会社「NODA・MAP」を設立。以後、『キル』『パンドラの鐘』『オイル』『赤鬼』『THE BEE』『ザ・ダイバー』『ザ・キャラクター』『表に出ろいっ!』『南へ』などの話題作を発表。中村勘三郎と組み、歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』などの脚本・演出も手掛ける。また、英国やタイの演劇人との、国際共同制作として作品を手掛けるなど、海外での創作活動にも積極的に取り組む。演劇界の旗手として、国内外での精力的な活動を展開。
2009年名誉大英勲章OBE受勲。
2009年度朝日賞受賞。
2011年紫綬褒章受章。

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