東京芸術劇場開館35周年企画

野田秀樹芸術監督インタビュー

1990年10月に開業した東京芸術劇場は、今年が35周年。と同時に、初代芸術監督・野田秀樹の就任最後の年度でもある。
約1年の設備更新工事が明ける9月を目前に、足掛け17年に及ぶ芸劇での活動と、残る任期で目指すものを聞いた。

── 芸術監督に就任される際、「彩りのある劇場を」というコンセプトのもと、「多くの人が集まる賑わいをつくる」「才能ある若い世代に使ってもらえる劇場にしたい」「国際的な作品を上演し、世界には素晴らしい作品があると伝えたい」といった目標を掲げられました。

野田 私が芸術監督に就任する前の芸劇は、基本的に貸し館として使われていて、劇場としてはっきりしたイメージはありませんでした。周囲の俳優たちにリサーチしても「行きたくない」「使いたくない」という意見が大半で、最初に掲げた目標は、そうしたところから立ち上げました。

これは何度か話していますが、就任直後、自分が教えていた多摩美術大学のゼミ生と劇場の入口で待ち合わせをしたんです。行ってみると生徒たちが離れたところにいて、理由を聞いたら、警備の人に「ここでたむろしないで」と言われたと。それは警備員さんが悪いわけではなくて、ここがどういう場所か、働く人にさえ理解されていなかった。何しろ最初の改装前(2011年以前)は、その日に上演される演目のポスターよりも、テナントの看板のほうがエントランスで目立っていたくらいでしたから。でもこの話には後日譚があって、その警備員さんが芝居に興味を持ってくれて、ある公演の当日券に並んでいた。「才能のある若い人たちに芸劇を使ってもらう」「すぐれた海外の作品を紹介する」という目標も、それぞれ、それなりの成果が上げられたのではないかと思います。

 

── 野田さんの戯曲を別の演出家に託す、劇作家に自作を朗読してもらうなど、さまざまな企画がありましたが、野田さん発信としては、演劇人同士の出会いの場をつくりたいと、俳優育成を主眼にした「東京演劇道場」を2019年に立ち上げられました。

野田 心残りなのは、2020年からコロナがあり、「さぁ、行くぞ」と思っていたことがごっそりできなくなったことです。道場生による『赤鬼』(東京演劇道場第一回公演/20年)は、地方公演もしたかった。地方の劇場・劇団との連携も思うようには叶えられなかったので、非常に残念です。そして現在も続いている工事が約10ヶ月あり、最後の1年にやりたいと思っていた計画がいくつも尻すぼみになってしまいました。

── 2011年4月から2012年8月末までの大規模改修(リニューアル)もありましたから、就任期間は長いとは言え、舵取りが難しい時期もあったと想像します。

野田 ただ、運良く初代の芸術監督ということで、何もない更地のところから自分のやりたいことを形にしてもらったことも多く、その点にはとても感謝しています。改修工事の際には、プレイハウス(元・中ホール)の客席づくりについて要望を伝え、かなり反映してもらいました。以前のプレイハウスは、なぜか客席のほぼ真ん中に幅広い通路があって、舞台上から見ると満席でも散漫に感じられるつくりでした。改修後は客席からも舞台を近くに感じやすい、俳優も演じやすい空間になったと思います。音響設備なども改善してもらいました。

それと何より、芸術監督になったことで、自分自身の日本の演劇界に対する目線が変わりました。実はオファーをもらった時、自分にこの仕事が向いているのか、かなり考えたんです。でも、向いている向いていないに関わらず、芸術監督になったことで、広く目が行くようになりました。以前は、自分が次にどんな芝居をつくるかだけを考えていましたが、さまざまな人の作品を観るようになり、自分の趣味とは違っても、一定のクオリティがあれば演劇というものは非常に幅が広くて豊かなものだと実感するようになりました。

「東京演劇道場」や、多摩美術大学で教えるようになって、若い人──そんなに若くない人も中にはいますけど(笑)──、と作品をつくるようになった時に、自分の考えを以前よりも明確に言語化する必要が生まれました。演出家の要求に必ずしも誰もが最初からできるわけではないので、その時に「こうできるようにしてほしい」という方向性を出す。同時に、一緒に考えること、あるいは、私の表現とは違うやり方、考え方にたくさん接して、自分のイメージの言語化に意識的になりました。年を取ったことももちろんあるでしょうけど、それは今の私の演劇観に大きく影響しています。

── 90年代末に海外の俳優と創作されるようになった時、やはり、自作の言語化について意識的になったと話されていましたが、それとは違いますか?

野田 あの当時は、まず説明することが必要でした。理詰めの戯曲を学んできた向こうにしてみれば、私の作品のように飛躍するものはやったことがないから、そのままだと理解してもらえない。それで「ここは漫画だよ。我々には漫画の感覚があるんだ。でもそれは急に出てきたものじゃなくて、実は歌舞伎にあったし、浮世絵にも誇張が多い。そういう演技体を私たちは持っているんですよ」ということを喋ったわけです。それはやっぱり、新しい環境に自分を置いたからできた。そういう意味では芸術監督も明らかに新しい環境に身を置く経験でした。

── 意識していなかった扉があり、それを開けることができた感じでしょうか。

野田 ただ、考えてみると、どこかできっと「いつかは開けなくてはいけない」と感じていたと思います。ひとつの場所だけに留まろうとするのは、やはりものをつくる人間として可能性を縮めることだから、厄介でもそういうことをしなくちゃいけないという危機感はあったんでしょうね。はっきり意識はしていませんでしたが。

 

── そうした貴重な時間が、芸劇の35年の一部と重なっていることに関して、改めて感想をお聞かせください。

野田 大規模改修の話に戻りますが、私がとある建物のレンガが好きで、「あれを使ってほしい」と言ったら調べてくれて、そのレンガは韓国の窯で焼いているものだったんですが、芸劇のも同じ窯で焼いてくれたものを使っています。

テナントの飲食店もそうです。欧米の話になりますが、ロンドンだと劇場のすぐ近くにパブがあって、終演後にそこで飲んでいると、出演していた俳優たちもやって来て、感想を伝えることができる。そういう場所が欲しいと言ってお店を選んでもらったり、亡くなった扇田昭彦さん(演劇評論家/芸劇の企画運営員を務めていた)が「おにぎり屋だけは残してほしい。観劇前の時間がない時に助かるから」とリクエストされて、それも考慮してもらったり。さっき話したプレイハウスの改修も含めて、やりたいことを反映してもらったことも多くある。だからとても愛着があるんです。立地もいいですよね。駅から近くて便利ですし、プレイハウスの広さ、シアターイーストやウエストとのバランスなども。

── 2026年4月から芸術監督には舞台芸術部門に岡田利規さんが就任されます。岸田國士戯曲賞の選考会などですでに交流があると思いますが、期待されることは?

野田 私とはまったく違うタイプの作品をつくる方なので、またさらに違う層のお客さんを開拓してもらえるでしょう。演劇の良さって、そんなふうにまったく違う趣味のものが、どれもおもしろいと言えることですよね。変化がさらに芸劇に広がりを生み、おもしろい劇場になっていくのではないでしょうか。

翻って、劇場にわざわざ足を運んでくれる、特に今の時代に劇場まで足を運ぶっていうのはすごい労力のはずで、その人たちを帰りに下を向かせることだけは、私たちはやっちゃいけないと思います。

聞き手・構成 徳永京子(演劇ジャーナリスト)

2025年8月
*7月1日発行 広報誌BUZZ vol49の原稿を基に、加筆・編集

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