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はじめまして、弱いい派:参加団体紹介(コトリ会議)

インタビュー

コトリ会議 制作:若旦那家康

今回は、「コトリ会議」の制作、若旦那家康さんにお話を伺いました!

若旦那さん、本日はお忙しい中ありがとうございます!「コトリ会議」さんのお話ももちろん、制作として大先輩の若旦那さんのヒストリーが伺えればと思っております。よろしくお願いいたします!

若旦那さん(以下、若旦那):よろしくお願いします。作・演出に話を聞くのは当然だと思うんですけど、「制作の話なんて誰が興味あんねん」なんて思ったりしちゃいますが、大丈夫ですかね…?

そうですね、なかなか表に出ることのないセクションですからね。ただ、個人的には、若旦那さんのお話は聞きたいという方は多いのではないかと思っております。
早速ですが、若旦那さんのこれまでの経歴について伺います。演劇を始められたきっかけはどういったものだったのでしょうか?

若旦那:どういった順番で話すのが良いか迷うんですけど、せっかくなのでまず「コトリ会議」のスタートから話すと、もともと作品を観たこともなかったのに、電話でオファーを受けて、客演として出演しました。出てみたらまあ面白かったというか、ちょうど僕は30歳を越えたくらいだったんですけど、勢いがあるし、しんみりするし、変だし、なんかすごく面白いなと思って。「知らなかったけどこんな人たちがいるんだ」と思いました。
さかのぼって僕が20代前半で制作をやりだしたときは、関西の小劇場で制作で、それ一本で働いている先輩はあまりいなくて。たぶん知らなかっただけなんですけど……。これでは演劇だけでやっていけないなと思って、自分でイベントをやったり、芸術文化系のバイトしていたんです。そこでの繋がりでウォーリー木下さんの劇団の制作の人と知り合って、アンサンブルキャストが足りないから出ないかと言われました。僕はその頃「上海太郎舞踏公司」(以下、「上海太郎」)という劇団でパントマイムとかパフォーマンスをしながら制作をやっていたので、アンサンブルキャストに呼ばれて群舞をやったときに、ちょっとリーダーシップを働かせてしまって、そしたらウォーリーさんに演出助手になったらと言われて、そこからウォーリーさんの演出助手をやっていたんです。けど当時の関西の小劇場では演出助手もまた、あまり職業として成立していなかったし、僕がやっていたのも本当に演出助手かと言われるとちょっとわからなかった。ウォーリーさんの友達みたいな感じで一緒に作品を創っていただけだったんで、仕事としては成立してなかったかもしれないです。そこから、「演出助手が出来るなら舞台監督もできるんじゃない?」みたいに言われて、「ま、ほなやってみよかな」ということで次は舞台監督をやりました。けど、関西の舞台監督は大道具も兼ねないといけなくて、その技術はないし、ちゃんと学んでないので困るなぁと思ったりして。できる範囲の舞台監督をやっていました。友達の手助けはやる、みたいな。俳優もしているし、制作も舞台監督も、演出助手もしていて、てんやわんやだったんですね。そんな中で「コトリ会議」に出会って、応援していこうと思ったんです。
当時は劇団員は3人しかいなくて、代表をしていた子が辞めると聞いて「これはもう解散する!」と思いました。その頃あんまり認知されていない劇団だったので。解散するのは良くないと思って、「劇団員になりたい。制作でも舞監でも何でもするから、山本くんは作品をもうちょっと書いたら良いんじゃないか。僕を劇団員にしてくれ」と言いに行った。そしたら「じゃあ俳優で入ってください」と言われて。だから、当初は、「コトリ会議」では一応、俳優だったんです。あと、僕自身が出てないと観に来ない人もいるので、お客さんを呼んで「コトリ会議」を知ってもらうには、僕が出ているということで良い部分があったんです。
そんなこんなしながらも、細々と大阪の隅っこでやっていたんですけど、僕が他の仕事で地方に行くことが多くなった流れで、「東京や、東京以外にもいろんなところで公演したい!」と思うようになりました。山本くんからも、いろんなところで公演したいと希望があったので、2015年~2016年にかけて、『対ゲキだヨ!全員集合』という若手劇団による共同製作企画をやりました。今回の芸劇eyes番外編で企画コーディネーターをされている徳永京子さんも、その『対ゲキ』を観に来てくださったんです。仙台の「短距離男道ミサイル」と名古屋の「オレンヂスタ」と大阪の「コトリ会議」で5都市ツアーを行うという企画でした。東京では3日間、こまばアゴラ劇場の公演で、口コミが広がって、最終日には2階バルコニーまでお客さんを入れないといけないくらいになったんです。そこからこまばアゴラ劇場でも単独で公演するようになって、毎年東京に来るようになりました。
ただ、やっぱり東京に来ても僕が一番東京に知り合いが多かったりするんで、自分が出てお客さんを呼んで、まずは知ってもらわないといけないと思っていました。でも、だんだん「コトリ会議」という名前が出て来たとき、「僕もう出んでいいでしょ」と思ったんですね。「ちょっと制作に専念しようかな」と。公演に犬の着ぐるみみたいな恰好で出てたりするんですけど、その恰好のまま客入れをして、前説して、そのまま芝居に出るみたいなことをしていたんです。出演しているけど制作だからと、カーテンコールで捌けた後に戻ってきてそのままの恰好で後説もする、みたいなことをしたり、アフタートークも山本くんじゃなくて僕がしていたという……。そうなると、僕が制作として終演後に会っておきたい人と挨拶もできない、という事態になったんです。それで、「ちょっとこれはどうやねん」と思って、制作に専念したという流れです。

先日山本さんにインタビューさせていただいた際のお話でも、山本さんに書いてもらうためにずっと活動をされているというのが素敵だなと思いました。

若旦那:いや、恥ずかしい(笑)なんでそのときそんなに思ったのか……。若い子も同期も含めて、面白い劇作家・演出家は関西にいたはずだし、僕自身は割とどこの劇団にでも制作として入れたと思う。ウォーリーさんの「sunday」も、劇団員だけ出ている公演なのに僕も出たりして、ほぼ「sunday」の人じゃないの?みたいな感じだったんで。けど「sunday」とか、他にも当時入ってもいいかもしれないと思ったカンパニーは、ある程度の評価をもう得ていて、僕がどうこうしなくても成立するだろうと思ったんですね。でも「コトリ会議」は……「つぶれるやろなぁ」と思ったというのが大きかったですね。今こうして他の人からも評価されたんで、「あ、間違いじゃなかったんや、良かった」とホッとした感じではありますね。

本当にすごいことだと思います。……私は制作としてそんな風になれるかな、と思ってしまって……

若旦那:制作っていろんなパターンがあって、アーティストを支える側もあれば、社会とアーティストをつなぐタイプ、社会の方からアーティストを招くタイプもある。色々やってると、「あ、この人はタイプ近いな」とかいろいろなパターンの人に出会えると思うんで、自分がどういう制作をやりたいかを考えるというか。僕が大阪市立芸術創造館(以下、芸創)というところにいたときは、やって来るカンパニーを他のところにどう繋いでいけるか、みたいなことを考えていました。舞台の管理をしながら、「たぶんこの人たちはチラシが遅いから、どうしてあげようか」とか。ワークショップのフェスティバル事務局の仕事もやっていたんですけど、やっぱりそこを辞めて「コトリ会議」に入って、山本くんを盛り立てたりしてるのを思うと、僕はアーティストに寄り添うタイプ。たぶんそれは舞台監督をやっていたときもそうで、「それは無理やで」と演出の要望をすぐ否定するよりかは、やりたいことをどうやったら叶うだろうという風に、「この人の考えることは面白いから、一緒に面白くしたい」と思うタイプだったんで、そういう制作になったんだと思います。

若旦那さんが演劇に関わり始めたのはどういうところだったのでしょうか?

若旦那:僕が中高生の頃って、関西の小劇場の人たちがテレビによく出ていたんです。「惑星ピスタチオ」もそうですし、「劇団新感線」も大阪で深夜番組とかに出ていて、それを見て面白いなと思って、高校で演劇部に入ったんですね。ただちょうど僕が演劇部に入ったときは先輩が誰もいなくて、自分たちでやっていたので、大会のことも知らないままだったんです。高校では誰にも教わらなかったし、自分たちでこうかなと思ってやっていたので、もうちょっと続けたいなと思ったのと、当時「惑星ピスタチオ」にすごくはまっていたんです。あるとき、「あんたの好きなのが出てるで」と親が新聞を見せてくれて、そこに西田シャトナーさんのインタビューがけっこう大きく載っていたもので、神戸大学「はちの巣座」出身って書いていたんですよ。それを見て「あ、神戸大に行こう!」って思って、芸大ではなく、普通の四年生の大学の経済学部に、演劇部に入りたいがために行きました。そして「はちの巣座」に入ったら、演劇漬けの日々でした。年間5回くらい公演があって、それにほぼ全部出演するか音響をやって、並行して他のプロデュース公演をやったり外の現場に呼ばれたりもしていたんで、御多分に漏れず5年生になりましたね。5年生のときに「上海太郎」に制作の人にボーリングに負けて入団し、制作の人がいなくなってからは制作も兼ねてやることになった、というのが流れです。
「上海太郎」を辞めた後は、バイトしながら自分でイベントとかをするフリーランス時代が3~4年ありました。そしてウォーリーさんのところにも呼ばれるようになり、舞監になり、舞監はちょっとしんどいやばいと思っていた時に芸創に入って、3~4年、「コトリ会議」とも並行しながら勤めて、芸創を辞めたあとは色々やりつつ「コトリ会議」という。ずっとグラデーションみたいな、逃げて逃げてここに来たという感じです。

なるほど……あらゆるところに神出鬼没な理由が少し分かった気がします……。

若旦那:今でも舞監で知り合った人からは舞監でオファーが来ることもありますね。

それはお受けしているんですか?

若旦那:あまり受けないようにしてますね。自分がこの人たちに合うかなということを考えたり、カフェ公演くらいやったらやったりもするんですけど。いかんせんスケジューリングが下手で……ダブルブッキングをするようになってしまって。最近減りましたけど。みんなやっぱり基本的には何かのスペシャリストになっていく。俳優からスタートしたけど舞監の方が向いていると思って進路を変えていったりとか、自分の意志とは別にオファーが増えていって、いつのまにかそっちで食べれるようになったとか色々あるけど、何かしら自分の仕事にポリシーを持っていらっしゃる方がすごく多いから、けっこう、「お前はどっちやねん」と怒られたり、いじられたりもあって。そんなときは「僕は本当にいったい何がしたいんやろう?」と、20代後半くらいから「このポジションを何と呼べばよいのか?」みたいに、悩みながらやっていました。結果、今は「制作」という言葉が一番しっくりきてると思うんですけど、なんか……大変でしたね。芸名で制作してることを、「お前はアーティストじゃないのになぜそんな変な名前を名乗るんや」みたいに言われたり。僕はなんか怒られやすいというか、いじられやすいんでしょうね。

ちなみに芸名なのは、俳優時代の名残ですか?

若旦那:はい、5年生になってしまったときに、「上海太郎」に出演することになって、身バレしてはいけない、親にバレてはいけないと思って付けてもらいました。当時は実家に住んでたので。そのまま、芸名をやめるタイミングがなかったという感じですね。そっちの方が浸透していて。

逆に、若旦那さんにできないセクションはあるんですか?

若旦那:いっぱいあります。ほとんどのことがまともにできないです。ほとんどのことがまともにできないけど、全くわからない人よりはちょっとわかっている、ぐらいの感じなので、カフェ公演ぐらいだったら照明も音響もできる。けど、それは本当にプロでやっている人からしたらすごく亜流なんだろうなと思うし、けど、だからこそ他のポジションのこともわかるというか。緩衝材になれるというところはあります。演出の言っていることを舞台監督が理解しないときに、「こうやったらどうですか?」と二人に説明したり、言葉足らずな人のプランを説明したり。いろんなところに目配せはできるっていうのは特権なんですけど、特にどこも秀でてはいない。なんだったら、やってはいるけど平均点以下なこともすごく多いと思いますね。俳優としてもね……よく出るんですけど、台詞は全然覚えられないし滑舌も悪かったり、平均点以下ですけど、味だけで呼ばれるってことが多いですね。「奉公人」ってクレジットすることもあります。それでなんで生きていけるかというと、運の良さ。運だけで今、東京芸術劇場の芸術監督室で取材を受けています(笑)

決して運だけではないと思います…!モチベーションはどうやって保っていたのですか?

若旦那:芸創に入ったときは、安定を取ったみたいな感じがして、その反動で芸創の休みの日に別の現場を入れたりするようになって、もうほんとにパンパンで、不誠実な仕事をしてしまうことが多かったんです。でも芸創をやめて、それまであった肩書がなくなったことに不安になって。芸創の名刺さえ持っていけば、深夜バスでこまばアゴラ劇場に行って面白いと思った劇団の人に挨拶できるけど、その肩書がなかったらどこの誰やねんと。そういう不安もあったんで、やりたいかやりたくないかわかんない仕事も入れまくって、すごく心が疲弊してしまった。やりたくないことやるとやっぱりモチベーションもすごい下がりますよね。それから、別に大金持ちになりたいとは思ってないから、やりたいところだけやってなんとかなっていったら良いんじゃないかと思うようになって。ちょっと気乗りしない仕事からは少しずつ手を引いていった。「スケジュールがちょっとまだわかんなくて……」とか「本番はいけるんですけど、本番まで全く来れないですけど良いですか?」とか言って。それで今、なんとかなっています。モチベーションは、やりたいことしかやらないから保てていますね。

若旦那さんから観て、今の日本の小劇場、演劇をどう思いますか?

若旦那:どうなんでしょうね。コロナがあって、移動してはいけないとはなったけど、オンラインで遠くの人と繋がれるようにはなったし。たぶんその前から、WEBやSNSの発達で、これまで演劇があまりできてない地域でも情報が入るようになっていたと思うんですね。LCCとか交通手段の発達によって、遠くから実際に見に来る人が増えたりもしていて。コロナにはなったけど、そうなったらなったで映像配信が増えたりして。やっぱり大きい仕事というか、すぐ仕事に繋がったりするというのはまだまだ東京だと思うんですけど、地方との格差みたいなものはより減っていくだろうなと思います。東京に出てくる地方の人たちもいるだろうけど、逆に東京の人たちの中にも、東京以外のところに拠点を移す人も出てきて、これからもっとミックスされていくと思うんですね。自分に向いている場所……買物がすぐにできる、小道具も揃うし人もたくさんいるという、東京の便利さもあれば、自由に自分たちのペースでできる地方の良さもある。知れば知るほど、「ここにも演劇をやっている人がいるんだ」という気づきがあるんです。そういうのを観ていくのは面白いなと思います。そんな中で「コトリ会議」は呼ばれてスケジュールさえ合えばどこでもいけるようにはなりたいけど、ちょっと、ここまで来るのに年齢を重ねすぎている感じがするので、山本くんがいつまで頑張ってくれるかなと……

確かに、演劇をやる手段というか、どの道を選ぶかという意味で、選択肢が増えたような気がします。「コトリ会議」さんには今後も地方公演を続けてほしいなと思います。

若旦那:続けることがけっこう重要と思っています。まぁもちろん辞めることもぜんぜん悪くないんですけど。だから大きい規模に行きたいというよりは、10人~20人しか入らないようなところでも、行ったことがないようなところに行ってやる、みたいな。逆に趣味みたいにしていって、それがまた何かに呼ばれるようになるかもしれないし、そのときどきに応じて拘らずに、行きたいところに行くっていうフットワークの軽さと柔軟さを持っていきたいですね。頑張ります!

応援しております。若旦那さん、本日はありがとうございました!

若旦那:ありがとうございました!

「コトリ会議」の若旦那家康さんにお話を伺いました。劇団に限らず、劇場やフェスティバルなど、あらゆる視点から小劇場を見守ってきた若旦那さん。前向きで軽やかな言葉に励まされたひと時でした。

芸劇eyes番外編はいよいよ合同稽古に入り、それぞれの団体の創作も佳境を迎えております。
1団体約40分、「弱いい派」という共通のテーマを持ちつつ、全く異なる3つの個性を放つ演目を、通しで観ることができるショーケース形式の公演です。
上演時間は約2時間(休憩なし)を予定しております。すでにチケットの販売が終了となった回もございますが、是非、会場にお越しください。皆様のご来場をお待ちしております。

稽古場インタビュー

コトリ会議 作・演出:山本正典さん

今回は、「コトリ会議」作・演出の山本正典さんです。取材には、制作の若旦那家康さんも同席してくださいました。
現在は大阪で新作『おみかんの明かり』の稽古をされている「コトリ会議」さん。稽古終了後にオンラインでお話を伺いました!

山本さん、若旦那さん、本日はお疲れのところお時間いただきありがとうございます。色々とお話を伺えますと幸いです!

山本さん(以下、山本):よろしくお願いします。

若旦那さん(以下、若旦那):よろしくお願いします。僕は山本くんが話すのを見守りますね。ところどころ補足していきます。

ありがとうございます。では早速ですが、この「はじめまして、「弱いい派」」シリーズで恒例になっている質問をさせていただきます。「コトリ会議」という劇団名には何か由来があるのでしょうか? 設立時のエピソードなどお聞かせください。

山本:名づけたのは僕なんですけど、結構いろんな候補がある中で、「コトリ会議」としました。響きが良かったとかそんなところでつけた名前ではあったんですけど、「コトリ」という言葉はカタカナにしてつけていて。それに関しては、以前徳永京子さんがズバリ当ててらっしゃったんですけど、「小さい鳥」の意味もあるし、何か小さな音を「コトリ」と鳴らすという、人が鳴らす作為的な音、気遣いの音みたいなものを表現するようなイメージで「コトリ」と名づけました。

過去の作品もそうですが、「静けさ」みたいなもの大事にされているのかなと感じました。

山本:そうなんですよ、すごく静かな中でのささやき声、みたいなのを大事にしていて。なので本番中、劇場の外で選挙カーが走ったりするとかなりヤバい(笑)「声が届かない、どうしたらいいんだ」みたいな、外の音にものすごく影響されるような芝居を今まで作ってきました。ふだん大阪や兵庫で活動していますが、公園のすぐそばで上演したときなんかは、子供の笑い声が聞こえてきたりとか。そういうのだったら微笑ましいんですけど、「コトリ会議」の作品の世界観って、世界の終わりだとか、ブラックホールに突っ込む直前の地球だとかばっかりなので、救急車の音が鳴ったりすると、ちょっと世界観が削がれるな、ということもしょっちゅうありますね。

SFの世界ですもんね。そういった作風は劇団の初期からだったのでしょうか?

山本:今思い返してみると、最初に上演したものもけっこうSFでしたね。「巨人が出てくる無人島で芝居を始める」だとか、「ギリシャ神話の神々たちとでっかいクジラを退治しにいく話」、「何億光年先の惑星の中の話」とか。宇宙人とかが出だしたのは、5~6年前とかですけど(笑)

スペクタクル的な、大きい世界観のSFという感じですね。そういった世界観が「静けさ、ささやき声」みたいな方向性に変わっていったのには、何かきっかけがあったのでしょうか?

山本:きっかけみたいなものはあまりないというか、自分の中では感じてないんですけど、よく言われるのは、震災のような大きな出来事を経て、その中で何を上演したらいいのかを模索していって、徐々に徐々に声が小さくなってきたね、ということ。あと明かりが本当に暗くなってきたね、と。だんだん小さく暗くなってきたみたいで。

作品の内容だけでなく、演出も徐々に変わっていかれたんですね。明かりといえば、芸劇eyesで上演される作品のタイトルが『おみかんの明かり』となっております。

山本:今回はショーケース形式ということもあって、あまり舞台美術を建て込むことはできないかなと思っています。

『おみかんの明かり』稽古場より

それで何かを表現しようと思ったら、照明でいろんな明かりを出すことかなと。そういったことを考えて作品を作ったので、タイトルも「おみかんの明かり」とつけて、何か象徴的な、ハッとする明かりを一つ作ろう、みたいな感じで進めていきました。

山本さんが演劇を始められたきっかけはどういったところだったのでしょうか?

山本:大学の時に友達と「若いんだし、なんか新しい事やりたいね。俺達こんなとこでくすぶってちゃだめだよね!」という感じで、バンドでも組もうか、それともどこかに旅でも出まくろうか、みたいな話をしていたんです。その中で、面白い劇団があるよと教えてもらって。そのときはまだTwitterもなかったので、友達が京都の劇団のホームページを拾ってきてくれました。全身金タイツを着て、それこそ宇宙人が出てきたりした写真があって。面白そうだったので稽古場見学をしに行ったら、その場で漫画みたいに入団届を書かされました(笑)半分詐欺みたいな感じで、あれよあれよという間に俳優としてやり始めていた感じですね。それまで演劇なんて全く見たことなかったのに(笑)

最初は俳優をされていたんですね。

山本:そうですね、はじめは俳優をやっていて、一年ほどで劇団を辞めてフリーランスになったんですけど、「劇団八時半」の鈴江俊郎さんと出会いました。「劇団八時半」の公演に俳優として出たときに、鈴江さんに「お前は台本を書け。自分一人で演劇を立ち上げて見せろ」とすごく熱いことを言われたんです。それに乗せられて、自分で戯曲書いてみて、劇団を立ち上げてやってみた、という経緯です。

……山本さんって結構、周りに巻き込まれていくタイプだったりしますか?

山本:そうですね(笑)今も、制作の若旦那さんがいろんなところから話を引っ張ってきて、いつの間にか来年の予定が決まっている、みたいな状況です。

若旦那:いやぁ、もう、すぐに「劇団を辞めたい、解散したい」と言うので……そのたびに僕が「来年決まってるんだから、今やめるべきじゃないんじゃないかな」と言って、のらりくらり騙しながらやっているというのがここ数年ですね。

若旦那さんの山本さんとの出会いはいつ頃だったのですか?

若旦那:それこそ、ギリシャ神話の神々とクジラを退治しに行く話の公演に、俳優として僕が呼ばれて、ゲストというかたちで出演したんです。それまで山本くんの作品は見たこともなかったし、知らなかったんですけど、出演してみたら結構面白かったので、ずっと続けたらいいのにと思っていたんです。その後、当時の劇団員の一人が、劇団を辞めて田舎に帰ると言い出して。「このままでは山本くん、劇団を解散してしまう!」と思ったんですね。それで、特に募集もされていなかったんですけど、「僕を劇団員にしてほしい」と頼んで劇団員にしてもらいました。俳優としても出演していたんですけど、徐々に制作的なところもやるようになって、山本くんを色々なところに売り込んでいった感じですね。

つまり、山本さんに書いてもらうために劇団員になったということですか?

若旦那:そうですね、山本くんに書き続けてもらうために僕は人生をささげているという感じですね。

山本:人生を(笑)

若旦那:山本くんは旅は好きだけど、人前に出たり、宣伝のためにフリートークするとかそういうのは嫌がる。だから代わりに僕がやっているんです。山本くんが書き続けるために僕が飛び回っている、というのを好んでやっているんです。山本くんはずっと書き続けたいと言っていて、ツアー中もずっと書き続けているので、書いている間を僕がつないでいる感じです。

山本:書いちゃうんですよね。今も、『おみかんの明かり』を誰に頼まれるわけでもなく書き直して。俳優たちはやっと台詞が憶えられたと思っているところで書き直されて、「おい山本!」と文句を言う。僕も本当だったら稽古場で演出家っぽく偉そうにしたいのに、いつもだいたい皆にへこへこしています。

若旦那:よく言うよ、へこへこはしてないよ。

山本:えー(笑)

若旦那:へこへこはしてないやろ(笑)いや、書き続けて疲れてはるなぁとは思うけど。

へこへこ、というよりは、へとへと、という感じでしょうか?

山本:そうですね、いつもへとへとしています。そんな僕に対してみんなが気を使ってくれて、それに対して僕がさらにへとへとしちゃって、一周回ってみんな怒り出して、僕はもっとへとへとしてしまって、というループが……今の稽古場では三周くらい回りましたね。

結構ループしたんですね(笑)では、そんな試行錯誤を重ねてつくられている新作『おみかんの明かり』について、どのような作品になるかお聞かせください。

山本:『おみかんの明かり』は山奥の湖のほとりが舞台なんですけど、そこに一人の女性が真夜中に懐中電灯を持ちながらやってくるところから始まります。懐中電灯も壊れてしまって、涙も鼻水も渇ききって、そこにほわっと「おみかんの明かり」というものが、ポツンと、おみかんぐらいのサイズの明かりが、湖のほとりに落ちていて、それを女の人が見つけて……という話です。

「おみかんの明かり」が出てくるんですね…!?

山本:そうですね、俳優が台詞で、「おみかんの明かり」って言います。「これが、おみかんの明かり……」っていう台詞があります(笑)

すごく可愛らしい感じですね(笑)そういったモチーフのイメージは普段どこから着想を得るのですか?

山本:それが、よく聞かれるんですけど、全然自分でもわかっていなくて……僕としては小さくてかわいいものはむしろ嫌いなんですよ。

『おみかんの明かり』稽古場より

昨日も「原始ブラックホールは本当にあるのか」みたいな番組の録画を見ながら、「ブラックホール怖いなー」とか思ったり。どっちかっていうと、大きくて壮大なものが好きで普段から見たり聞いたりしているんですけど……。あ、ちなみに、「原始ブラックホール」は、太陽の数万倍のものもありながら、極小サイズの、人がすり抜けても気づかないくらいのサイズのものもあるのではないか、と言われていて、まだ発見されていないものです。
僕、田舎者なんで、でっかいビルとか橋とか見たら「うわぁ~」ってなるタイプですね。もしかしたら、壮大なものをずっと見ているから、合わせ鏡のように、ちっぽけな自分を感じて、作品に影響しているのかもしれないですね。

今回の芸劇eyesについて、ショーケース形式の公演をどのように感じていますか?

山本:今回はまだ他の2団体さんの作品も生では拝見していないので、まだわからないですね。普段のショーケースだったら、他の団体とかぶらないようにしようとか考えるんですけど……でも、なかなか小さい声で暗い照明で、みたいな劇団さんってあんまりいないので、結果的に自分たちは他の人たちと違うものをやっているみたいな感じになるんですけどね。今回は未知数なので、とにかくあの広い空間で何か面白いことができたらなと考えています。

これまで様々な土地で公演をされていると思います。旅公演のエピソードをお聞かせください。

山本:作品を一緒に作る人たちといつもと違う土地に行って、そこで1~2週間寝泊まりして、同じ作品を上演するという時間を共有するだけでも、すごく楽しいし、輝いていることなので、それがまず良いですね。旅公演の醍醐味というか。地域によって観てくださるお客様の反応とかも全然違ったりもして。特にうちは、どの作品も最初は「あれ、これ…笑っていいのかな?もしかしてこれは、悲しむべきシーンなのかな」みたいにお客様が戸惑われるような場面が多くて。大阪ではゲラゲラ笑ってもらえるシーンが、別の公演場所だとすごい真面目に観てもらえて、ちょっと「困ったな…」となってしまうようなときもありますね。でも、反応が薄かったシーンについても、後から感想を聞いてみると「あのシーン良かったです」みたいに言ってもらえることもあって、「あ、そうなんだ、良いと思っててくださったんだ!」と。そういう反応の違いがすごく面白いですね。
あとは、旅のエピソードはありすぎて何をお話ししたらいいのか…(笑)福岡の街中で若旦那さんが無理をしすぎてレンタカーをガリっとしちゃった話とか、狭い車に劇団員がぎゅうぎゅうに詰まりながら帰ったり……

すごい、皆さん仲がよろしいんですね。青春を感じました(笑)

山本:演劇は青春するためにやってますからね。

若旦那:大学生のときに、面白いことがしたくて演劇を始めたから、いつまでも大学生気分が抜けない感じなんだろうね。

山本:演劇やり続ける限り、青春ですよ。

素敵な関係性ですね。では最後になりますが、芸劇eyesへの意気込みをお願いします!

山本:意気込み、そうですね……あの、オリンピックより、盛り上げます(笑)

若旦那:それ書いちゃって大丈夫ですか(笑)

山本:あ、そうか(笑)えーと、それじゃあ、オリンピックと同じくらい、盛り上げます!

とても楽しみです(笑)山本さん、若旦那さん、本日はありがとうございました!

山本:ありがとうございました!

若旦那:ありがとうございました!

「コトリ会議」の山本さんと若旦那さんにお話を伺いました。お話から、劇団員の皆さんの仲の良さが伝わってきて、合同稽古で皆さんが揃うのがとても楽しみになりました!

次回は、「いいへんじ」の松浦みるさんをご紹介します。
第一回目の中島梓織さんに続き、「いいへんじ」設立メンバーで、俳優として活躍されている松浦さん。俳優の目からみた中島さん、そして「いいへんじ」の新作についてお話を伺います。お楽しみに!

インフォメーション

インタビュー

コトリ会議 制作:若旦那家康

今回は、「コトリ会議」の制作、若旦那家康さんにお話を伺いました!

若旦那さん、本日はお忙しい中ありがとうございます!「コトリ会議」さんのお話ももちろん、制作として大先輩の若旦那さんのヒストリーが伺えればと思っております。よろしくお願いいたします!

若旦那さん(以下、若旦那):よろしくお願いします。作・演出に話を聞くのは当然だと思うんですけど、「制作の話なんて誰が興味あんねん」なんて思ったりしちゃいますが、大丈夫ですかね…?

そうですね、なかなか表に出ることのないセクションですからね。ただ、個人的には、若旦那さんのお話は聞きたいという方は多いのではないかと思っております。
早速ですが、若旦那さんのこれまでの経歴について伺います。演劇を始められたきっかけはどういったものだったのでしょうか?

若旦那:どういった順番で話すのが良いか迷うんですけど、せっかくなのでまず「コトリ会議」のスタートから話すと、もともと作品を観たこともなかったのに、電話でオファーを受けて、客演として出演しました。出てみたらまあ面白かったというか、ちょうど僕は30歳を越えたくらいだったんですけど、勢いがあるし、しんみりするし、変だし、なんかすごく面白いなと思って。「知らなかったけどこんな人たちがいるんだ」と思いました。
さかのぼって僕が20代前半で制作をやりだしたときは、関西の小劇場で制作で、それ一本で働いている先輩はあまりいなくて。たぶん知らなかっただけなんですけど……。これでは演劇だけでやっていけないなと思って、自分でイベントをやったり、芸術文化系のバイトしていたんです。そこでの繋がりでウォーリー木下さんの劇団の制作の人と知り合って、アンサンブルキャストが足りないから出ないかと言われました。僕はその頃「上海太郎舞踏公司」(以下、「上海太郎」)という劇団でパントマイムとかパフォーマンスをしながら制作をやっていたので、アンサンブルキャストに呼ばれて群舞をやったときに、ちょっとリーダーシップを働かせてしまって、そしたらウォーリーさんに演出助手になったらと言われて、そこからウォーリーさんの演出助手をやっていたんです。けど当時の関西の小劇場では演出助手もまた、あまり職業として成立していなかったし、僕がやっていたのも本当に演出助手かと言われるとちょっとわからなかった。ウォーリーさんの友達みたいな感じで一緒に作品を創っていただけだったんで、仕事としては成立してなかったかもしれないです。そこから、「演出助手が出来るなら舞台監督もできるんじゃない?」みたいに言われて、「ま、ほなやってみよかな」ということで次は舞台監督をやりました。けど、関西の舞台監督は大道具も兼ねないといけなくて、その技術はないし、ちゃんと学んでないので困るなぁと思ったりして。できる範囲の舞台監督をやっていました。友達の手助けはやる、みたいな。俳優もしているし、制作も舞台監督も、演出助手もしていて、てんやわんやだったんですね。そんな中で「コトリ会議」に出会って、応援していこうと思ったんです。
当時は劇団員は3人しかいなくて、代表をしていた子が辞めると聞いて「これはもう解散する!」と思いました。その頃あんまり認知されていない劇団だったので。解散するのは良くないと思って、「劇団員になりたい。制作でも舞監でも何でもするから、山本くんは作品をもうちょっと書いたら良いんじゃないか。僕を劇団員にしてくれ」と言いに行った。そしたら「じゃあ俳優で入ってください」と言われて。だから、当初は、「コトリ会議」では一応、俳優だったんです。あと、僕自身が出てないと観に来ない人もいるので、お客さんを呼んで「コトリ会議」を知ってもらうには、僕が出ているということで良い部分があったんです。
そんなこんなしながらも、細々と大阪の隅っこでやっていたんですけど、僕が他の仕事で地方に行くことが多くなった流れで、「東京や、東京以外にもいろんなところで公演したい!」と思うようになりました。山本くんからも、いろんなところで公演したいと希望があったので、2015年~2016年にかけて、『対ゲキだヨ!全員集合』という若手劇団による共同製作企画をやりました。今回の芸劇eyes番外編で企画コーディネーターをされている徳永京子さんも、その『対ゲキ』を観に来てくださったんです。仙台の「短距離男道ミサイル」と名古屋の「オレンヂスタ」と大阪の「コトリ会議」で5都市ツアーを行うという企画でした。東京では3日間、こまばアゴラ劇場の公演で、口コミが広がって、最終日には2階バルコニーまでお客さんを入れないといけないくらいになったんです。そこからこまばアゴラ劇場でも単独で公演するようになって、毎年東京に来るようになりました。
ただ、やっぱり東京に来ても僕が一番東京に知り合いが多かったりするんで、自分が出てお客さんを呼んで、まずは知ってもらわないといけないと思っていました。でも、だんだん「コトリ会議」という名前が出て来たとき、「僕もう出んでいいでしょ」と思ったんですね。「ちょっと制作に専念しようかな」と。公演に犬の着ぐるみみたいな恰好で出てたりするんですけど、その恰好のまま客入れをして、前説して、そのまま芝居に出るみたいなことをしていたんです。出演しているけど制作だからと、カーテンコールで捌けた後に戻ってきてそのままの恰好で後説もする、みたいなことをしたり、アフタートークも山本くんじゃなくて僕がしていたという……。そうなると、僕が制作として終演後に会っておきたい人と挨拶もできない、という事態になったんです。それで、「ちょっとこれはどうやねん」と思って、制作に専念したという流れです。

先日山本さんにインタビューさせていただいた際のお話でも、山本さんに書いてもらうためにずっと活動をされているというのが素敵だなと思いました。

若旦那:いや、恥ずかしい(笑)なんでそのときそんなに思ったのか……。若い子も同期も含めて、面白い劇作家・演出家は関西にいたはずだし、僕自身は割とどこの劇団にでも制作として入れたと思う。ウォーリーさんの「sunday」も、劇団員だけ出ている公演なのに僕も出たりして、ほぼ「sunday」の人じゃないの?みたいな感じだったんで。けど「sunday」とか、他にも当時入ってもいいかもしれないと思ったカンパニーは、ある程度の評価をもう得ていて、僕がどうこうしなくても成立するだろうと思ったんですね。でも「コトリ会議」は……「つぶれるやろなぁ」と思ったというのが大きかったですね。今こうして他の人からも評価されたんで、「あ、間違いじゃなかったんや、良かった」とホッとした感じではありますね。

本当にすごいことだと思います。……私は制作としてそんな風になれるかな、と思ってしまって……

若旦那:制作っていろんなパターンがあって、アーティストを支える側もあれば、社会とアーティストをつなぐタイプ、社会の方からアーティストを招くタイプもある。色々やってると、「あ、この人はタイプ近いな」とかいろいろなパターンの人に出会えると思うんで、自分がどういう制作をやりたいかを考えるというか。僕が大阪市立芸術創造館(以下、芸創)というところにいたときは、やって来るカンパニーを他のところにどう繋いでいけるか、みたいなことを考えていました。舞台の管理をしながら、「たぶんこの人たちはチラシが遅いから、どうしてあげようか」とか。ワークショップのフェスティバル事務局の仕事もやっていたんですけど、やっぱりそこを辞めて「コトリ会議」に入って、山本くんを盛り立てたりしてるのを思うと、僕はアーティストに寄り添うタイプ。たぶんそれは舞台監督をやっていたときもそうで、「それは無理やで」と演出の要望をすぐ否定するよりかは、やりたいことをどうやったら叶うだろうという風に、「この人の考えることは面白いから、一緒に面白くしたい」と思うタイプだったんで、そういう制作になったんだと思います。

若旦那さんが演劇に関わり始めたのはどういうところだったのでしょうか?

若旦那:僕が中高生の頃って、関西の小劇場の人たちがテレビによく出ていたんです。「惑星ピスタチオ」もそうですし、「劇団新感線」も大阪で深夜番組とかに出ていて、それを見て面白いなと思って、高校で演劇部に入ったんですね。ただちょうど僕が演劇部に入ったときは先輩が誰もいなくて、自分たちでやっていたので、大会のことも知らないままだったんです。高校では誰にも教わらなかったし、自分たちでこうかなと思ってやっていたので、もうちょっと続けたいなと思ったのと、当時「惑星ピスタチオ」にすごくはまっていたんです。あるとき、「あんたの好きなのが出てるで」と親が新聞を見せてくれて、そこに西田シャトナーさんのインタビューがけっこう大きく載っていたもので、神戸大学「はちの巣座」出身って書いていたんですよ。それを見て「あ、神戸大に行こう!」って思って、芸大ではなく、普通の四年生の大学の経済学部に、演劇部に入りたいがために行きました。そして「はちの巣座」に入ったら、演劇漬けの日々でした。年間5回くらい公演があって、それにほぼ全部出演するか音響をやって、並行して他のプロデュース公演をやったり外の現場に呼ばれたりもしていたんで、御多分に漏れず5年生になりましたね。5年生のときに「上海太郎」に制作の人にボーリングに負けて入団し、制作の人がいなくなってからは制作も兼ねてやることになった、というのが流れです。
「上海太郎」を辞めた後は、バイトしながら自分でイベントとかをするフリーランス時代が3~4年ありました。そしてウォーリーさんのところにも呼ばれるようになり、舞監になり、舞監はちょっとしんどいやばいと思っていた時に芸創に入って、3~4年、「コトリ会議」とも並行しながら勤めて、芸創を辞めたあとは色々やりつつ「コトリ会議」という。ずっとグラデーションみたいな、逃げて逃げてここに来たという感じです。

なるほど……あらゆるところに神出鬼没な理由が少し分かった気がします……。

若旦那:今でも舞監で知り合った人からは舞監でオファーが来ることもありますね。

それはお受けしているんですか?

若旦那:あまり受けないようにしてますね。自分がこの人たちに合うかなということを考えたり、カフェ公演くらいやったらやったりもするんですけど。いかんせんスケジューリングが下手で……ダブルブッキングをするようになってしまって。最近減りましたけど。みんなやっぱり基本的には何かのスペシャリストになっていく。俳優からスタートしたけど舞監の方が向いていると思って進路を変えていったりとか、自分の意志とは別にオファーが増えていって、いつのまにかそっちで食べれるようになったとか色々あるけど、何かしら自分の仕事にポリシーを持っていらっしゃる方がすごく多いから、けっこう、「お前はどっちやねん」と怒られたり、いじられたりもあって。そんなときは「僕は本当にいったい何がしたいんやろう?」と、20代後半くらいから「このポジションを何と呼べばよいのか?」みたいに、悩みながらやっていました。結果、今は「制作」という言葉が一番しっくりきてると思うんですけど、なんか……大変でしたね。芸名で制作してることを、「お前はアーティストじゃないのになぜそんな変な名前を名乗るんや」みたいに言われたり。僕はなんか怒られやすいというか、いじられやすいんでしょうね。

ちなみに芸名なのは、俳優時代の名残ですか?

若旦那:はい、5年生になってしまったときに、「上海太郎」に出演することになって、身バレしてはいけない、親にバレてはいけないと思って付けてもらいました。当時は実家に住んでたので。そのまま、芸名をやめるタイミングがなかったという感じですね。そっちの方が浸透していて。

逆に、若旦那さんにできないセクションはあるんですか?

若旦那:いっぱいあります。ほとんどのことがまともにできないです。ほとんどのことがまともにできないけど、全くわからない人よりはちょっとわかっている、ぐらいの感じなので、カフェ公演ぐらいだったら照明も音響もできる。けど、それは本当にプロでやっている人からしたらすごく亜流なんだろうなと思うし、けど、だからこそ他のポジションのこともわかるというか。緩衝材になれるというところはあります。演出の言っていることを舞台監督が理解しないときに、「こうやったらどうですか?」と二人に説明したり、言葉足らずな人のプランを説明したり。いろんなところに目配せはできるっていうのは特権なんですけど、特にどこも秀でてはいない。なんだったら、やってはいるけど平均点以下なこともすごく多いと思いますね。俳優としてもね……よく出るんですけど、台詞は全然覚えられないし滑舌も悪かったり、平均点以下ですけど、味だけで呼ばれるってことが多いですね。「奉公人」ってクレジットすることもあります。それでなんで生きていけるかというと、運の良さ。運だけで今、東京芸術劇場の芸術監督室で取材を受けています(笑)

決して運だけではないと思います…!モチベーションはどうやって保っていたのですか?

若旦那:芸創に入ったときは、安定を取ったみたいな感じがして、その反動で芸創の休みの日に別の現場を入れたりするようになって、もうほんとにパンパンで、不誠実な仕事をしてしまうことが多かったんです。でも芸創をやめて、それまであった肩書がなくなったことに不安になって。芸創の名刺さえ持っていけば、深夜バスでこまばアゴラ劇場に行って面白いと思った劇団の人に挨拶できるけど、その肩書がなかったらどこの誰やねんと。そういう不安もあったんで、やりたいかやりたくないかわかんない仕事も入れまくって、すごく心が疲弊してしまった。やりたくないことやるとやっぱりモチベーションもすごい下がりますよね。それから、別に大金持ちになりたいとは思ってないから、やりたいところだけやってなんとかなっていったら良いんじゃないかと思うようになって。ちょっと気乗りしない仕事からは少しずつ手を引いていった。「スケジュールがちょっとまだわかんなくて……」とか「本番はいけるんですけど、本番まで全く来れないですけど良いですか?」とか言って。それで今、なんとかなっています。モチベーションは、やりたいことしかやらないから保てていますね。

若旦那さんから観て、今の日本の小劇場、演劇をどう思いますか?

若旦那:どうなんでしょうね。コロナがあって、移動してはいけないとはなったけど、オンラインで遠くの人と繋がれるようにはなったし。たぶんその前から、WEBやSNSの発達で、これまで演劇があまりできてない地域でも情報が入るようになっていたと思うんですね。LCCとか交通手段の発達によって、遠くから実際に見に来る人が増えたりもしていて。コロナにはなったけど、そうなったらなったで映像配信が増えたりして。やっぱり大きい仕事というか、すぐ仕事に繋がったりするというのはまだまだ東京だと思うんですけど、地方との格差みたいなものはより減っていくだろうなと思います。東京に出てくる地方の人たちもいるだろうけど、逆に東京の人たちの中にも、東京以外のところに拠点を移す人も出てきて、これからもっとミックスされていくと思うんですね。自分に向いている場所……買物がすぐにできる、小道具も揃うし人もたくさんいるという、東京の便利さもあれば、自由に自分たちのペースでできる地方の良さもある。知れば知るほど、「ここにも演劇をやっている人がいるんだ」という気づきがあるんです。そういうのを観ていくのは面白いなと思います。そんな中で「コトリ会議」は呼ばれてスケジュールさえ合えばどこでもいけるようにはなりたいけど、ちょっと、ここまで来るのに年齢を重ねすぎている感じがするので、山本くんがいつまで頑張ってくれるかなと……

確かに、演劇をやる手段というか、どの道を選ぶかという意味で、選択肢が増えたような気がします。「コトリ会議」さんには今後も地方公演を続けてほしいなと思います。

若旦那:続けることがけっこう重要と思っています。まぁもちろん辞めることもぜんぜん悪くないんですけど。だから大きい規模に行きたいというよりは、10人~20人しか入らないようなところでも、行ったことがないようなところに行ってやる、みたいな。逆に趣味みたいにしていって、それがまた何かに呼ばれるようになるかもしれないし、そのときどきに応じて拘らずに、行きたいところに行くっていうフットワークの軽さと柔軟さを持っていきたいですね。頑張ります!

応援しております。若旦那さん、本日はありがとうございました!

若旦那:ありがとうございました!

「コトリ会議」の若旦那家康さんにお話を伺いました。劇団に限らず、劇場やフェスティバルなど、あらゆる視点から小劇場を見守ってきた若旦那さん。前向きで軽やかな言葉に励まされたひと時でした。

芸劇eyes番外編はいよいよ合同稽古に入り、それぞれの団体の創作も佳境を迎えております。
1団体約40分、「弱いい派」という共通のテーマを持ちつつ、全く異なる3つの個性を放つ演目を、通しで観ることができるショーケース形式の公演です。
上演時間は約2時間(休憩なし)を予定しております。すでにチケットの販売が終了となった回もございますが、是非、会場にお越しください。皆様のご来場をお待ちしております。

稽古場インタビュー

コトリ会議 作・演出:山本正典さん

今回は、「コトリ会議」作・演出の山本正典さんです。取材には、制作の若旦那家康さんも同席してくださいました。
現在は大阪で新作『おみかんの明かり』の稽古をされている「コトリ会議」さん。稽古終了後にオンラインでお話を伺いました!

山本さん、若旦那さん、本日はお疲れのところお時間いただきありがとうございます。色々とお話を伺えますと幸いです!

山本さん(以下、山本):よろしくお願いします。

若旦那さん(以下、若旦那):よろしくお願いします。僕は山本くんが話すのを見守りますね。ところどころ補足していきます。

ありがとうございます。では早速ですが、この「はじめまして、「弱いい派」」シリーズで恒例になっている質問をさせていただきます。「コトリ会議」という劇団名には何か由来があるのでしょうか? 設立時のエピソードなどお聞かせください。

山本:名づけたのは僕なんですけど、結構いろんな候補がある中で、「コトリ会議」としました。響きが良かったとかそんなところでつけた名前ではあったんですけど、「コトリ」という言葉はカタカナにしてつけていて。それに関しては、以前徳永京子さんがズバリ当ててらっしゃったんですけど、「小さい鳥」の意味もあるし、何か小さな音を「コトリ」と鳴らすという、人が鳴らす作為的な音、気遣いの音みたいなものを表現するようなイメージで「コトリ」と名づけました。

過去の作品もそうですが、「静けさ」みたいなもの大事にされているのかなと感じました。

山本:そうなんですよ、すごく静かな中でのささやき声、みたいなのを大事にしていて。なので本番中、劇場の外で選挙カーが走ったりするとかなりヤバい(笑)「声が届かない、どうしたらいいんだ」みたいな、外の音にものすごく影響されるような芝居を今まで作ってきました。ふだん大阪や兵庫で活動していますが、公園のすぐそばで上演したときなんかは、子供の笑い声が聞こえてきたりとか。そういうのだったら微笑ましいんですけど、「コトリ会議」の作品の世界観って、世界の終わりだとか、ブラックホールに突っ込む直前の地球だとかばっかりなので、救急車の音が鳴ったりすると、ちょっと世界観が削がれるな、ということもしょっちゅうありますね。

SFの世界ですもんね。そういった作風は劇団の初期からだったのでしょうか?

山本:今思い返してみると、最初に上演したものもけっこうSFでしたね。「巨人が出てくる無人島で芝居を始める」だとか、「ギリシャ神話の神々たちとでっかいクジラを退治しにいく話」、「何億光年先の惑星の中の話」とか。宇宙人とかが出だしたのは、5~6年前とかですけど(笑)

スペクタクル的な、大きい世界観のSFという感じですね。そういった世界観が「静けさ、ささやき声」みたいな方向性に変わっていったのには、何かきっかけがあったのでしょうか?

山本:きっかけみたいなものはあまりないというか、自分の中では感じてないんですけど、よく言われるのは、震災のような大きな出来事を経て、その中で何を上演したらいいのかを模索していって、徐々に徐々に声が小さくなってきたね、ということ。あと明かりが本当に暗くなってきたね、と。だんだん小さく暗くなってきたみたいで。

作品の内容だけでなく、演出も徐々に変わっていかれたんですね。明かりといえば、芸劇eyesで上演される作品のタイトルが『おみかんの明かり』となっております。

山本:今回はショーケース形式ということもあって、あまり舞台美術を建て込むことはできないかなと思っています。

『おみかんの明かり』稽古場より

それで何かを表現しようと思ったら、照明でいろんな明かりを出すことかなと。そういったことを考えて作品を作ったので、タイトルも「おみかんの明かり」とつけて、何か象徴的な、ハッとする明かりを一つ作ろう、みたいな感じで進めていきました。

山本さんが演劇を始められたきっかけはどういったところだったのでしょうか?

山本:大学の時に友達と「若いんだし、なんか新しい事やりたいね。俺達こんなとこでくすぶってちゃだめだよね!」という感じで、バンドでも組もうか、それともどこかに旅でも出まくろうか、みたいな話をしていたんです。その中で、面白い劇団があるよと教えてもらって。そのときはまだTwitterもなかったので、友達が京都の劇団のホームページを拾ってきてくれました。全身金タイツを着て、それこそ宇宙人が出てきたりした写真があって。面白そうだったので稽古場見学をしに行ったら、その場で漫画みたいに入団届を書かされました(笑)半分詐欺みたいな感じで、あれよあれよという間に俳優としてやり始めていた感じですね。それまで演劇なんて全く見たことなかったのに(笑)

最初は俳優をされていたんですね。

山本:そうですね、はじめは俳優をやっていて、一年ほどで劇団を辞めてフリーランスになったんですけど、「劇団八時半」の鈴江俊郎さんと出会いました。「劇団八時半」の公演に俳優として出たときに、鈴江さんに「お前は台本を書け。自分一人で演劇を立ち上げて見せろ」とすごく熱いことを言われたんです。それに乗せられて、自分で戯曲書いてみて、劇団を立ち上げてやってみた、という経緯です。

……山本さんって結構、周りに巻き込まれていくタイプだったりしますか?

山本:そうですね(笑)今も、制作の若旦那さんがいろんなところから話を引っ張ってきて、いつの間にか来年の予定が決まっている、みたいな状況です。

若旦那:いやぁ、もう、すぐに「劇団を辞めたい、解散したい」と言うので……そのたびに僕が「来年決まってるんだから、今やめるべきじゃないんじゃないかな」と言って、のらりくらり騙しながらやっているというのがここ数年ですね。

若旦那さんの山本さんとの出会いはいつ頃だったのですか?

若旦那:それこそ、ギリシャ神話の神々とクジラを退治しに行く話の公演に、俳優として僕が呼ばれて、ゲストというかたちで出演したんです。それまで山本くんの作品は見たこともなかったし、知らなかったんですけど、出演してみたら結構面白かったので、ずっと続けたらいいのにと思っていたんです。その後、当時の劇団員の一人が、劇団を辞めて田舎に帰ると言い出して。「このままでは山本くん、劇団を解散してしまう!」と思ったんですね。それで、特に募集もされていなかったんですけど、「僕を劇団員にしてほしい」と頼んで劇団員にしてもらいました。俳優としても出演していたんですけど、徐々に制作的なところもやるようになって、山本くんを色々なところに売り込んでいった感じですね。

つまり、山本さんに書いてもらうために劇団員になったということですか?

若旦那:そうですね、山本くんに書き続けてもらうために僕は人生をささげているという感じですね。

山本:人生を(笑)

若旦那:山本くんは旅は好きだけど、人前に出たり、宣伝のためにフリートークするとかそういうのは嫌がる。だから代わりに僕がやっているんです。山本くんが書き続けるために僕が飛び回っている、というのを好んでやっているんです。山本くんはずっと書き続けたいと言っていて、ツアー中もずっと書き続けているので、書いている間を僕がつないでいる感じです。

山本:書いちゃうんですよね。今も、『おみかんの明かり』を誰に頼まれるわけでもなく書き直して。俳優たちはやっと台詞が憶えられたと思っているところで書き直されて、「おい山本!」と文句を言う。僕も本当だったら稽古場で演出家っぽく偉そうにしたいのに、いつもだいたい皆にへこへこしています。

若旦那:よく言うよ、へこへこはしてないよ。

山本:えー(笑)

若旦那:へこへこはしてないやろ(笑)いや、書き続けて疲れてはるなぁとは思うけど。

へこへこ、というよりは、へとへと、という感じでしょうか?

山本:そうですね、いつもへとへとしています。そんな僕に対してみんなが気を使ってくれて、それに対して僕がさらにへとへとしちゃって、一周回ってみんな怒り出して、僕はもっとへとへとしてしまって、というループが……今の稽古場では三周くらい回りましたね。

結構ループしたんですね(笑)では、そんな試行錯誤を重ねてつくられている新作『おみかんの明かり』について、どのような作品になるかお聞かせください。

山本:『おみかんの明かり』は山奥の湖のほとりが舞台なんですけど、そこに一人の女性が真夜中に懐中電灯を持ちながらやってくるところから始まります。懐中電灯も壊れてしまって、涙も鼻水も渇ききって、そこにほわっと「おみかんの明かり」というものが、ポツンと、おみかんぐらいのサイズの明かりが、湖のほとりに落ちていて、それを女の人が見つけて……という話です。

「おみかんの明かり」が出てくるんですね…!?

山本:そうですね、俳優が台詞で、「おみかんの明かり」って言います。「これが、おみかんの明かり……」っていう台詞があります(笑)

すごく可愛らしい感じですね(笑)そういったモチーフのイメージは普段どこから着想を得るのですか?

山本:それが、よく聞かれるんですけど、全然自分でもわかっていなくて……僕としては小さくてかわいいものはむしろ嫌いなんですよ。

『おみかんの明かり』稽古場より

昨日も「原始ブラックホールは本当にあるのか」みたいな番組の録画を見ながら、「ブラックホール怖いなー」とか思ったり。どっちかっていうと、大きくて壮大なものが好きで普段から見たり聞いたりしているんですけど……。あ、ちなみに、「原始ブラックホール」は、太陽の数万倍のものもありながら、極小サイズの、人がすり抜けても気づかないくらいのサイズのものもあるのではないか、と言われていて、まだ発見されていないものです。
僕、田舎者なんで、でっかいビルとか橋とか見たら「うわぁ~」ってなるタイプですね。もしかしたら、壮大なものをずっと見ているから、合わせ鏡のように、ちっぽけな自分を感じて、作品に影響しているのかもしれないですね。

今回の芸劇eyesについて、ショーケース形式の公演をどのように感じていますか?

山本:今回はまだ他の2団体さんの作品も生では拝見していないので、まだわからないですね。普段のショーケースだったら、他の団体とかぶらないようにしようとか考えるんですけど……でも、なかなか小さい声で暗い照明で、みたいな劇団さんってあんまりいないので、結果的に自分たちは他の人たちと違うものをやっているみたいな感じになるんですけどね。今回は未知数なので、とにかくあの広い空間で何か面白いことができたらなと考えています。

これまで様々な土地で公演をされていると思います。旅公演のエピソードをお聞かせください。

山本:作品を一緒に作る人たちといつもと違う土地に行って、そこで1~2週間寝泊まりして、同じ作品を上演するという時間を共有するだけでも、すごく楽しいし、輝いていることなので、それがまず良いですね。旅公演の醍醐味というか。地域によって観てくださるお客様の反応とかも全然違ったりもして。特にうちは、どの作品も最初は「あれ、これ…笑っていいのかな?もしかしてこれは、悲しむべきシーンなのかな」みたいにお客様が戸惑われるような場面が多くて。大阪ではゲラゲラ笑ってもらえるシーンが、別の公演場所だとすごい真面目に観てもらえて、ちょっと「困ったな…」となってしまうようなときもありますね。でも、反応が薄かったシーンについても、後から感想を聞いてみると「あのシーン良かったです」みたいに言ってもらえることもあって、「あ、そうなんだ、良いと思っててくださったんだ!」と。そういう反応の違いがすごく面白いですね。
あとは、旅のエピソードはありすぎて何をお話ししたらいいのか…(笑)福岡の街中で若旦那さんが無理をしすぎてレンタカーをガリっとしちゃった話とか、狭い車に劇団員がぎゅうぎゅうに詰まりながら帰ったり……

すごい、皆さん仲がよろしいんですね。青春を感じました(笑)

山本:演劇は青春するためにやってますからね。

若旦那:大学生のときに、面白いことがしたくて演劇を始めたから、いつまでも大学生気分が抜けない感じなんだろうね。

山本:演劇やり続ける限り、青春ですよ。

素敵な関係性ですね。では最後になりますが、芸劇eyesへの意気込みをお願いします!

山本:意気込み、そうですね……あの、オリンピックより、盛り上げます(笑)

若旦那:それ書いちゃって大丈夫ですか(笑)

山本:あ、そうか(笑)えーと、それじゃあ、オリンピックと同じくらい、盛り上げます!

とても楽しみです(笑)山本さん、若旦那さん、本日はありがとうございました!

山本:ありがとうございました!

若旦那:ありがとうございました!

「コトリ会議」の山本さんと若旦那さんにお話を伺いました。お話から、劇団員の皆さんの仲の良さが伝わってきて、合同稽古で皆さんが揃うのがとても楽しみになりました!

次回は、「いいへんじ」の松浦みるさんをご紹介します。
第一回目の中島梓織さんに続き、「いいへんじ」設立メンバーで、俳優として活躍されている松浦さん。俳優の目からみた中島さん、そして「いいへんじ」の新作についてお話を伺います。お楽しみに!

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