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TMTギア ―東京芸術劇場クリエイター支援プロジェクト
TMTギア 額田大志演出:ワークインプログレス レポート
このテキストは、TMTギアの企画による、額田大志演出のワークインプログレスを記録したものである。
3月23日から26日まで稽古があり、27日、28日にワークインプログレスの公演があった。現実に起きたことの記録である。と同時に、このテキストは精一杯のびのびと、虚構であろうとする。100%満タンの現実と、100%満タンの虚構との両立。その、論理的には矛盾に見える状態こそが、今回試された行為の総体にふさわしいと思うからだ。
額田大志は、表現形式として、音楽と演劇を並列させてきた。バンド東京塩麹のリーダーとして、劇団ヌトミックの主催として、活動を並行させてきた。二つの形式で試してきたものを、交差させて深めることができないか。深めなくてはいけないのではないか。そのような内的な必要性が、額田くん(普段私が読んでいる呼び方を使用することにします)の中に生じたのだと思う。今回のワークインプログレス用テキストには、冒頭に「三つの試したいこと」が記されていた。
・A=実際に演奏する俳優と、テキストが同時に進行する。より音楽のタイムラインによって、進行する。1月にやってみて面白かった点のシーン化。
・B=音楽によって動かされる身体が、発話に影響を与える(発話によって身体が動くのではなく、身体の動きが発話に影響する。これまでの音楽→発話→身体のようだった順番を、音楽→身体→発話と変化させてみる)
・C=音楽という存在の抽象化(舞台上の影響ではなく、もっと大いなる存在としての音楽?具体的な方法としては、トラックと生演奏が存在する)
テキストだけだと、なにがしたいか判然としない。実際にワークインを見てみるとわかるだろうか。
A/B/Cの試みは、それぞれ一つの戯曲の別のシーンに対応しているようだ。闇バイトに手を染めざるをえなかった登場人物達の、悲喜劇的な状況が描かれている。テキストにはメモとして、「逃れられない悪についての話」と書かれている。
Aのシーンは、3人の人物がハンドクラップを繰り返しながら、セリフを投げていく。八分の六拍子で3人が別のリズムパターンを両手で叩いていく。今までのヌトミックでも、セリフをリズムとして扱ったり、バンド演奏と演技を同時に動かしたりと、音楽と演劇を重ねる演出は為されてきた。ただ今回は、同じ人間が、演奏(ハンドクラップ)と演技(セリフの発話)を同時に行うという点で過去の上演と異なる。音楽50%と演劇50%で100%にするのではなく、100%満タンの音楽と、100%満タンの演劇を両立させようとしている。つまり演者に200%の作業を要求しているわけだ。大変だ。演者の一人、佐山和泉さんが途中「脳みそを一回全部取り替えたい」と言っていた。俳優としての知性で動いている分、演奏者としての知性をインストールできない、といった意味だろう。今回のメンバーでは若手になる長沼航さんは積極的に演出家や他の俳優とコミュニケートしていて、自らのなすべきこととできることを擦り合わせているようだった。
Bのシーンは、名曲喫茶の中という設定。ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』がスピーカーから流れだし、演者達は体を揺らし始め、椅子を離れて手足を大きく動かす。その動く体の中からセリフを発していく。言葉の文脈に応じるのではなく、身体の流れを発話のきっかけにする。そのような試みが為されているのだと実感する。
私が最初に見たのは、Cの場面だった。3月25日水曜日の16時10分頃。ワークイン三日目の途中に初めて見学した。スピーカーから、街の喧騒らしき音が流れていて、打楽器奏者が打音を鳴らす。そのなかで、俳優の原田つむぎさんが、セリフを発話する。
このCが、非常に難物であり、今回の上演のキーである。Aには、200%の作業の困難さはあるが、やることは明確である。実際、日を追うごとに精度があがっていて、ワークインプログレス上演では、ハンドクラップのリズムのキレも、会話のリアリティも、明確に変わっていた。Bの上演に関しても、ダンスを経由する言葉の効果が表れていた。しかしながら、Cは最後まで曖昧なまま残っていた。少なくとも、私にはそう感じられた。
ワークインの振り幅が最も大きかったのもCだった。最初に私がみたとき、演者の原田さんはまず稽古場内を何周(おそらく6~7周)も走り、息切れしたところからセリフを始めていた。それは「前に見たことある」「話し始めると動きが止まってしまう」などの理由が出て、自然と却下されていた。次に、カラスの鳴き声を彷彿とさせる、高い声だが感情を抑制した感じで発話を始めた。翌日には、「音をめっちゃ聴くとどうなりますか?」と額田くんがリクエストし、スピーカーと原田さんの位置を変えていた。打楽器の種類もたびたび変わっていた(そもそも今回は演奏者の宮坂遼太郎さんが途中から参加できず、上演時には演出助手の方が演じていた)。Cは最も手探りな状態であったように思う。
Cにおける「音楽という存在の抽象化」という目的は、困難なものに感じられる。なぜなら、音楽はそもそも抽象的だからだ。絵や文字が、ある対象を写実することができるのに対し、音楽は写実的にはなれない。たとえば、リンゴを絵にすることはできる。言葉によるリンゴの描写もできる。しかし、音だけでリンゴを表現することは大変に困難である。音楽は元々「抽象」なのであり、抽象的なものを抽象化することはできないのだ。
それは、音楽と演劇を同時に行うというプロジェクトの困難さにも関係している。複数の身体が舞台にあり、それぞれの身体が音を発するという点で、音楽と演劇は同じだ。複製技術によって音楽は舞台から離脱するようになったが、レコーディングやラジオが当たり前になる前、そもそもすべての音楽は上演だった。つまり、音楽と演劇は、最低限の要素をぬきだして抽象化すると、同じものに近づいていく。音楽と演劇の両立が難しいのは、その実現が困難だからではなく、それがあまりに簡単だからだ。すべての音楽はつきつめれば演劇であり、すべての演劇はつきつめれば音楽だ。だから、その両立は新しい試みになりえない。すべての記録がつきつめれば虚構であり、すべての虚構がつきつめれば記録であるように。
しかし、それでも音楽と演劇は違う。私たちはそう思う。2026年の世界に生きる私たちにとって、音楽と演劇はたしかに別のものとして意識される。では、その違いはなんなのか。なんで違うことになるのか。物語とセリフのない演劇だってある(たとえばベケットの『クワッド』)。物語とセリフのある音楽だってある(オペラやミュージカルは今も健在だ)。それでも音楽と演劇が違うとしたら、それは何によってなのか。
今回のワークインには、毎日「チェックアウト」という試みがあった。ワークの参加者が、全員その日の感想を述べるのだ(私も一言感想を言った)。TMTギアのメンター役である岡田利規さんが来た日、岡田さんはこんなことを言っていた。「額田さんたちは、音楽と演劇を横の線で扱うんじゃないことをやってる。音楽と演劇を対置させて、どっち寄りかで考えるんじゃない。たとえばミュージカルはそういうものだけど、今回やってることは違うと思った。横の線じゃなくて、奥行きのある縦の線で考えている。」
x軸に「音楽」と「演劇」を極にした線があるとして、今回試されていることは、別の極を持つy軸で考えている。この感覚は、私も直感的に理解できる。音楽と演劇の両立といっても、手前で成立するものと、奥行きを持ってなり立つものがある。その「奥行き」の実感を確かめるために、今回のワークインプログレスは行われている。
その意味で、やはり大事なのはCの試みだろう。現在の音楽は、聴いた瞬間にジャンルや文脈が判断される。「これはヒップホップ」「これはアニソン」「これは初期ビートルズのライブ録音」といった風に。上演の後の質問の時間においても、Bのシーンでコルトレーンの録音を選ぶことにコンテキストが発生してしまうと、指摘する質問者がいた。
Cでスピーカーから流れる音も、「街の喧騒を録音した音」というコンテキストがすぐに頭に浮かんでくる。打楽器の音にも、「即興演奏」というコンテキストが浮かんでくる。そうした文脈をはぎとった、ただ「音楽」でしかない音楽を、演者・演奏者・録音物のぶつかりあいで発見しようとする。その「音楽」でしかない音楽は、同時に「演劇」でしかない演劇になるのではないか。そうした予感が、ワークインプログレスの時間からは伝わってくる。
先ほども言ったように、ワークイン後の上演は、数日でおどろくほど質を上げていた。ハンドクラップ・ミュージックやダンスの喜びと、声・言葉・表情・身体の関係から物語が想像される演劇の面白さが、どちらも少しずつ表れていた。
でも俳優達は悔しそうだった。「保守的にやっちゃった」と、長沼さんと原田さんはこぼしていた。私もなんとなく言いたいことはわかった。その「保守」は、「容易にイメージできちゃう音楽と演劇になってしまった」ということだと思う。y軸の奥行きが足りなかった、ということもできるだろう。
今回の一週間弱の試みは、このような物語として語ることができる。もちろん、そこには無数のとりこぼしがある。楽譜台に乗せた台本をめくるときに、ハンドクラップしてた右手が代わりに胸を叩くときの楽しさや、顔の向きをひとつ変えただけで(額田くんが「キッチンを見るように」と演者に指示していた)、名曲喫茶の場所のイメージが具体化しときの面白さなどを、記していない。それでも、具体的な記録を犠牲にしても、まずは額田くんたちがやろうとしていることの難しさを、ここに記録しておきたい。額田くんがいつもどおり涼しい顔をしていたことも、記録しておきたい。