メインコンテンツにスキップ

二人の芸術監督 岡田利規・山田和樹 往復書簡 第3信

舞台芸術部門芸術監督の岡田利規と、音楽部門芸術監督の山田和樹。
ともに世界を舞台に活躍する二人は、直接顔を合わせてじっくり語り合う機会はそうありません。
そんな二人が、日頃考えていること、芸術に寄せる思い、そして劇場の未来について語り合うために始めたのが、この往復書簡です。
そのやりとりは、舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」で上演されるコラボレーション企画『静寂のガツンとした一撃』(2026年10月25日)の準備から始まりました。
互いへの問いかけや応答のなかには、作品創りへの視点や芸術への考え方、劇場という場に託す思いが垣間見えます。
不定期でお届けするこの往復書簡を通して、二人の対話がどのように広がっていくのか。二人が交わす言葉の往還から立ち現れる、芸術と劇場の新たな風景。
どうぞご期待ください。

第3信

山田和樹さま

まず、前回の手紙でバーミンガム市交響楽団を「マンチェスター交響楽団」と間違えてしまいまして、大変失礼いたしました。
この間違い、山田さんが書いてくれた返信の手紙を添付したメールの本文の中とかで指摘してくれていたら、この往復書簡をなんらかの形で公開する(われわれそのことをなんとなくもくろみつつこのやりとりを交わしているわけですけれども)暁に校正プロセスでしれっと直すこともできたでしょうが、手紙の中で追伸として言及されちゃったおかげでそういうわけにもいかなくなったので、この際、いっそのことそのままにしておきましょう。
この間違いはいろいろな「露わになったらおもしろいな」ということを、はからずも露わにしてくれているようにおもいます。山田さんが音楽監督を務める楽団の名前さえろくに知らない者が、どうやら山田さんが音楽部門の芸術監督をやる劇場の舞台芸術部門の芸術監督として山田さんと肩を並べることになるらしいぞということ。そのうえ、バーミンガムとマンチェスターを間違えるなんてどうやら演劇人のくせにシェイクスピアの国のこともわかってないらしいぞということ(実際、イギリスはあんまり行ったことがないんです)、それらをいちどきに露わにしているこれはなかなかコスパのよい間違いをしたものです。ま、一般にはこういうのはただの開き直り、とも言うわけですが。

わたしたちのコラボレーションをするにあたって“違い”に光を当ててみるのはどうだろう、という山田さんのアイデアは、その“違い”を照らし出すために扱うひとつの具体的な対象を「時間」とするのはどうかというのも含めて、とってもおもしろいとおもいます。相対性理論、ごく人並みにですが、ぼくもおもしろいなあとおもってます。映画『インターステラー』のマシュー・マコノヒー演じる主人公が、自分の年齢を追い越して老婆になった娘と再会するラストシーン、泣けますよねー。
ちなみに山田さんからの返信を読んで、メトロノームがいつ発明されたのかが知りたくなりましてグーグルのAIモード検索をしてみました。そしたら、19世紀初頭にメトロノームを考案したメルツェルというドイツの発明家の同時代人であるベートーヴェンはメトロノームの速度表示を初めて楽譜に書き込んだ作曲家の一人として知られている、という豆知識を教えてもらったのですが、これってフェイク情報じゃないですよね?
時計で測れる時間を意味するクロノスという概念と、主観的な時間の流れをあらわすカイロスという概念とがありますよね。ぼくは、音楽の聴衆も舞台芸術の観客も、演奏/上演に立ち会いながら経験している時間というのはカイロスのことにほかならないとおもうんです。断じてクロノスではないはずです。だって、コンサートや舞台の上演にわざわざ足を運んで経験するのがクロノスだなんて、つまらなくないですか??
で、ここからがぼくには興味深いのですが、それではそのために、つまり聴衆/観客にカイロスを経験してもらうために、パフォーマーの側は時間をクロノスとして扱うのか、カイロスとして扱うのか?
いつから世界がそのようになったのかは寡聞にして知らないのですけど、現在の世界はクロノスですっかり覆い尽くされていますよね。カイロスは恩寵のように突如訪れるという僥倖に恵まれるか、意図的にクロノスを剥がしたり締め出したりして、カイロスといういわば裸形の時間を生み出そうと試みるかしないと、体験できません。
そんな状況である現在において時間芸術 Time Based Artsが為し得る価値あることのひとつはカイロスの経験の契機となることだとぼくはおもってます。そして音楽はそれをやるのがほんと得意だよなあ、といつも羨望込みでおもってます。
翻って、これも時間芸術に属しているはずの舞台芸術は果たしてどうか?演劇に比べるとダンスのほうが、まだ、裸形の時間を経験させてくれるような表現が多く存在していると言えます。演劇にもありますが、しかしとても少ない。
それはなぜなんでしょうか。演劇という表現形式がそもそも資質的にカイロスを経験させるのが得意ではないから、だとはぼくはおもってないです。そうではなくてぼくは、これは退屈ということと関わっているんじゃないかとおもいます。
わたしたちは退屈を恐れています。演劇をつくることに携わるわたしたちは、自分たちが提供する上演が観客に退屈とおもわれることをなによりも恐れているといえます。そしてその基本姿勢が、カイロスの経験をもたらすようなものが生み出されることの機会損失につながっている面はあるんじゃないかなーと。
クロノス的時間の中に囚われている状況から抜け出してカイロス的経験のほうへと向かうときに通過するトンネルのようなものとしての退屈っていうのがあるとおもうんですよ。そうではない単なる退屈、というのもあるとおもいますけれどもね。
退屈のことはまあよいとして、話題を戻すんですが、音楽を生み出す行為って、メトロノームとかBPMとか、時間をクロノス的に捉えることに規定されて行われることも多いですよね。でも、にもかかわらずその結果生み出される演奏は聴衆にカイロス的な経験を与え得るし、実際に与えていますよね。それって、ものすごいことじゃないですか??
あ、ところで指揮ってどうなんですか?指揮はもしかしたらクロノス的ではなくて、むしろ逆かもしれないですね。山田さんの指揮する音楽を聞くということは山田さんのカイロスを経験することだと言えるんですかね?だとしたら、それって、ものすごくおもしろいことじゃないですか?

『リビングルームのメタモルフォーシス』という作品を以前つくりました。これは作曲家の藤倉大さんとのコラボレーションでした。藤倉さんのスコアを演奏する七人の楽器演奏者とぼくの書いた戯曲に基づいて演戯をする六人の俳優とでおこなわれるパフォーマンスです。クリエーションのプロセスの中で、演奏と演戯を合わせてあるシーンを何回か繰り返してやってみることがありました。一回ごとに、おわったあとにミュージシャンのみなさんが、いまのは演戯のペースがさっきの回より全然速かったとか反対にものすごく遅かったというフィードバックをくれました。つまり、パフォーマンスの進むスピードがどうやらまったく一定じゃないようなのです。そして演劇の側は、俳優たちのみならず演出家であるぼくも含めて、そのことにほとんど気づいてないという……。
演劇側と音楽側のこの、時間を測る感覚のあまりの落差。ミュージシャンはパフォーマンス時に時間をクロノス的に掴むという訓練や経験を、きっと積むのですよね?一方で俳優は、演戯している時間をクロノス的には捉えていません。もっともそれは、ぼくの演劇に携わってくれる際の俳優は、という限定的なものではあるかもしれませんが。
ぼくがアーティスティック・ディレクターを務める『秋の隕石』という舞台芸術祭の、第1回めが10月頭から開催されているのですが、それがまもなく、ようやく終わりを迎えます。それでちょっとほっとしてきているのもあり、それよりなにより山田さんからの手紙に触発されたのでこの返信を割と即レス的に、そして前回よりも長く、わりととりとめもなく、書いてしまいましたー。

2025年11月1日
ここ数日とくらべるときょうはだいぶ暖かい土曜日の池袋にて
岡田利規
一覧に戻る

関連記事